連休中にはTBS前で被災地の物産展が催されて
福島からの出店に「箭内さんちの干椎茸」という袋詰めが。
「猪苗代湖ズ」の箭内道彦さんちではないと思うけれど・・・
福島には箭内さんが多いということも近頃はじめて知りました。
福島のどこかの旅館の女将さんが箭内さんだったし。
菅野よう子は宮城出身ですが、菅野姓も当地に多いということも。
TIME誌の100人に選ばれたお医者さんも菅野さんだったし。
4月には故郷群馬の母校、渋川高校にて講演をしました。
予定していた「想像力と詩と青春」を少し変えて
「震災と詩と青春」という演題で。
以下は、そのとき引用した司馬遼太郎さんのエッセイの一部で
終戦間際、戦車隊にいて中国から本土に転じた司馬さんの回想。
( 相馬ヶ原は渋川と高崎の間の丘陵で、今も陸上自衛隊駐屯地
福島の相馬地方と同じく、古くは馬の産地だったのでしょう )
前橋で降り、そのあと桑畑のあいだの道を徒歩で西方の
相馬ヶ原(現・箕郷町)にむかったときは、はじめて見る
関東平野というものの広さにおどろいてしまった。
「こんな広いところが、日本にもあったんですねえ」
・・・(中略)・・・
榛名、赤城という、山頂に火口湖をたたえて裾野を大きく
ひろげている円錐状のかつての火山が全面の視野いっぱい
を占めていて、その4合目あたりから裾野が大傾ぎにかしぎ
つつこちらへひろがってきて、さらに背後へひろがりつづけ、
ついに東京へいたるのだろうと思うと、空が落ちてきても
大丈夫なひろさのようにおもわれた。・・・その感じの中で
萩原朔太郎をおもいだし、空だけだったから詩人を生んだのだ
とおもったりした。京都周辺のような錯綜した山河でなしに、
こういう空が大きすぎる下で、変化するものといえば雲の形や
色だけという自然の中で少年の日々を送ると、想像力が際限も
なくひろがるのではないかとおもったりした。
・・・ともかくもこの日の上州の空は大きすぎ、なにか言葉で
うずめないと歩いてられないほどであった。
司馬遼太郎「私の関東地図」
という、司馬さん自身の文章がいつもながら詩的で
当地のパノラマ的眺望を知っている者には膝を打つ名文です。
司馬さんは、ほんとうに「土地褒め」の天才だなあ。
とはいえ、関東平野を望み「空がひろい」と感じるのは、
群馬に限らず、栃木も茨城もそうではないかと思われますが・・・
関東平野のすみっこ、北関東のどこかしこでも。
( 栃木育ちの斉藤和義の詞にも、その「空」を感じるし )
群馬の生んだ詩人として名前が挙がるのは、まず萩原朔太郎、
それからダダイストとして知られる萩原恭次郎がいます。
群馬には萩原さんが多い?・・・確かにそうかも。
<追記>
箭内くんに刺激されて、じゃないけれど
Remember the country の気持ちは、いまとても感じています。
福島に 福島に(=故郷に)
置いてきたんだ 僕は 本当の自分を
あの歌詞の出色の部分はここです。
だから胸を打つのだと思う、時局的な意味だけじゃなくて。
それに目をつぶるいうことは、すなわち
自分の住んでいる都会以外はどうなってもいい
( 過疎化しても、荒蕪化してもいい )
ということを、認めるということだから。
もうずいぶん前から気づいていて、目をつぶってきた、そのことを。