アンクル・トリスの復活を祝って!
ちょっと珍しい
開高健さんのCM論をご紹介します。
(ごく一部を引用)
コマーシャル・フィルムの枠
よく聞かれることだが、あんな気楽なCF(コマーシャル・フィルム)を
考えたり、つくったりしているのはきっと面白いことだろうね、楽しんでや
っている様子がよくわかるよ、うらやましいな、と。
( 中略 〜 CF制作は気楽ではない、という文意があって )
こういう仕事をするようになったので私も友人たちにあおりたてられてと
うとうテレビを一台買わされてしまった。他社のCFを研究するためという
理由であるが、実際買ってみると、ほとんど教えられることがなにもないと
いうことがわかった。このまえCFについて書いたときにもふれたことだが、
自然主義のわるい支配に対して姿勢がまったく低いのである。
この場合、自然主義というのは発想法の本質そのもののことをさしている。
ひとつひとつの動画について観察してみれば、なかにはすぐれたイメージの
飛躍や頭のよいアイデアをもったものもすくなくはないのだが、それはプロ
ットとしての漫画であって、実際に漫画を支配している線がどうにも古くて
陳腐なのである。小説家における文体のように、漫画はまず線で感じられ、
考えられ、線から発想されてゆくものだと思うが、その線がお話にならない
のである。ちょうどハードボイルドを気どった小説が文体をしらべてみれば
まったくの風俗小説の文体で客体と主体のあいだになんの断絶の操作もない、
というのと事情がよく似ている。
だから、単純化や、要素化や、機能化など、モダニズムの文法を踏んでい
るフィルムでも細部をよく見ればデフォルメがまったく無体系でアナーキー
なチグハグになっているというようなことがしじゅうある。これはまったく
制作者側の責任である。
( 中略 〜 ディズニーのリアリズムとその模倣への批判があって )
テレビCFをつくるときの最大の前提はブラウン管の面積である。これは
テレビ・ドラマでもなんでも、すべてのものについていえることだが、私た
ちはいつもあの小さな枠のなかで仕事をしなければならない。空間は間口よ
りも奥行きで生きてくる。この特質を利用しなければならない。したがって、
背景や場の設定やト書きなどでは制作者はまったく禁欲的になる義務がある。
もっとも必要なものを必要なだけ最小限描いて、あとはすべてを聴視者の想
像力にゆだねなければならない。説明は聴視者を拒否する方向でしかはたら
かないからこれもできるかぎり避ける必要がいる。
( 後略 )
( 初出『キネマ旬報』昭和34年8月1日 )
どうでしょう。
ずいぶん昔、草創期の、おもにアニメCFについての論考ですが
・・・いやいや、最後の一節など、いまの私たちも非常に耳が痛い。
われらが開高先輩、たいへんに意識的なCF制作者だったことがわかります。
本文は、中公文庫『ピカソはほんまに天才か』に所収。