その<洗礼>を受けたのは1970年、高校1年の夏。
ちょっとかっこよかった、詩を書く3年生に詰め寄られた。
「きみはヨシモトのゲンビを読んだか?」
それは吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』という著作。
読んだことあるわけないでしょ、まったく。中学出たての少年で。
「きみと話をするのは、それからにしよう」
そういう時代でした。でも、それはわるくない。
若者は背伸びをすべきだし、生意気であるべきだ。
「世界」との、格闘をはじめる、その年頃は。
吉本さんの有名なセリフのひとつ
「井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、
井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、
井の外につながっている」
それは、いつも「世界」にコンプレックスをもっていた
「世界」をイコール「西欧」、その「文化」として引用するだけの
明治〜戦後の日本(のアカデミズム、ジャーナリズム)に対する
強烈なアンチテーゼだったでしょう。
なんて自信に満ちた。なんて堂々とした。「個」がそこにあった。
世界認識。
その「世界」とは・・・
JET STREAM で JAL PACK が誘う「世界」とも違うし
世界の一流ブランドの「世界」とも違うんだ。
内と外とのほんとうの境界は、血縁でも、地域でも、国でもなく
ただ、ひととして、個としての存在にある。
そんなことを、教えられた気がした。
いまでも「世界」ということばを、私はその意味で使います。
幸せのその日に 君はなぜ震えて泣く
世界でいちばんの 笑顔のあとで
世界に愛されながら
斉藤和義「ウエディング・ソング」