多摩美大の講義「広告コピー論」で「ことばと音」の話をしました。
「ことば」はもともと音である、語りである、というテーマです。
黙読と音読(朗読)、その違いをあらためて体感してみよう。
そのテキストとして、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の一節をつかって。
私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の
景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、恐らく今を措いて
はこれほどの溢れるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得
らないだろうことを考えていた。そしてずっと後になって、いつかこ
の美しい夕暮が私の心に蘇って来るようなことがあったら、私はこれ
に私達の幸福そのものの完全な絵を見出すだろうと夢みていた。
「何をそんなに考えているの?」
私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなこと
があったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
「本当にそうかも知れないわね」彼女はそう私に同意するのがさも愉
しいかのように応じた。
それからまた私達はしばらく無言のまま、再び同じ風景に見入って
いた。が、そのうちに私は不意になんだか、こうやってうっとりと見
入っているのが自分であるような自分でないような、変に茫漠とした、
取りとめのない、そしてそれが何んとなく苦しいような感じさえして
来た。そのとき私は自分の背後で深い息のようなものを聞いたような
気がした。が、それがまた自分のだったような気もされた。私はそれ
を確かめでもするように、彼女の方を振り向いた。
「そんなにいまの……」そういう私をじっと見返しながら、彼女はす
こし嗄れた声で言いかけた。が、それを言いかけたなり、すこし躊躇
っていたようだったが、それから急にいままでとは異った打棄るよう
な調子で「そんなにいつまでも生きて居られたらいいわね」と言い足
した。
まず、これを黙読する。そして、朗読してみる。
さらに、バックグラウンドに音楽を当てたら、どう聞こえるか。
ここからが、広告コピー論、CM論につながっていきます。
たとえば『Anniversary』(澤田かおりさんのセルフカバー音源)や
斉藤和義の『約束の12月』を当ててみたりしました。
女性ボーカルのバラードだと「節子」(映画では菜穂子)の側に感情
移入して聞こえますし、男性だと「私」側に視点が移る。
これはこれで、語りと歌がよく響きあって聞こえました。
そして最後は、荒井由実『ひこうき雲』を。
やっぱりです。これぞ最強の組み合わせです。
映画『風立ちぬ』ばかりでなく、小説の『風立ちぬ』にも、この歌は
ぴったりだったのです。・・・当然のこととはいえ。
宮崎駿さんは実在の人物、航空機の設計者、堀越次郎(=宮崎さんの
分身、憧れ)に仮託しながら、同時に小説『風立ちぬ』の世界(への
憧れ)も描いた。それをつないだのが、この歌でしょう。
そういえば、この歌、このアルバムでデビューした頃。
ユーミン、荒井由実は「八王子のキャロル・キング」と呼ばれていた
多摩美大生だったこともなにかの縁でしょう。