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一倉 宏

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2012/01/09 (月)
ことばのゆくえ

年明け早々、急ぎの連絡があってSくんの携帯に<直接>電話したら・・・
驚かれてしまったようです。
そういえば、家族でも友人でも、メールで済ますことが多くなった。

2001年に、ある雑誌の依頼で書いた「IT時代のことばのゆくえ」。
かなり長文ですので、冒頭と結末のあたりだけ引用します。
この年のはじめには、いくつかの会場で「荒れる成人式」がニュースに。
そして、式の最中に「携帯をいじっている新成人」が目立ちました。

  21世紀になっても、成人式はちゃんと存在していた。20世紀とまるで同じ
 式次第のままに。しかし主催者の意図せぬかたちで時代は顕れた。(略)
  最低限のルールを守れないのならそもそも「成人式」などに来るな、という
 モラルの問題、おとなたちの正論はひとまず措くとする。それは結論としての
 出口ではありえても入口の扉を開かない。私たちの時代にはこうではなかった
 というのなら、私たちの時代にも自治体の首長や政治家たちの祝辞は退屈きわ
 まりなく、胸のうちで舌打ちをしていたあの日の気分を思い出しておいたほう
 がいい。これは、どっちもどっちもの茶番劇だともいえる。

  いうまでもないことだが、時代にはいつも光と影がある。いまの若い企業人
 たちもことしの成人式の出席者も「たいせつだと思うもの」のアンケートをと
 れば、社会的役割とか志のような項目よりも、恋人や家族、友だちなどを上位
 に押し上げる。そこには失われたものもあるかわりに獲得されたものもあるだ
 ろう。それは先行世代の経済主義の行き詰まりや挫折に学んだ人間性の回復だ
 ともいえる。それはよいことに違いない。
  影の部分はやはり、目先のことしか生きている世界として見えない閉塞感、
 目先のことにしかかかわれない徒労感、などがあるだろう。この世界はモノや
 コトが充満してきているようで、しかし虚しさもまた増大している。IT社会
 もまた、この光と影にかかわっていると思う。どこでもコミュニケーションが
 とれることは人間の絆を助けるだろう。しかし企業でも教育の現場でも、その
 空虚さを埋めるだけの、ただそれだけのたわいのない「電子のおしゃべり」が
 増殖している。
 
  またたぶん、こころの空虚を埋めるだけの電子のおしゃべりは、いったん依
 存症のようなものを確実に引き起こすだろう。そのあとひとはまた、その虚し
 さに気づけばよいのだろう。私もいま連日、現実のおしゃべりより効率的とも
 本質的とも思えないメールなどを打ちつづけてやめられないのだ。なぜかとい
 えば、ただ、空白がさみしいから。
 
  私はあのとき、携帯電話・PHS はひとにとって何の役目をするのだろうと考
 えた。ただの便利でなく、ひとはそこに何を求めるのか、と。近くにいる若者
 やこどもたちや、自分のこころのなかをのぞいてみようとした。そして、ひと
 つの比喩をつくり、キャンペーンの中心に歌の歌詞として置いた。その、考え
 たすえの一行とは、こういうものだった。

  声のおまもりください。

  これが、ある本質を言い当てているだろうという自信はいまも揺るがない。
 掌の中のちいさな端末は、人々にそのような存在としてあるだろう。そのよう
 に見なければ、IT社会のゆくえというものも見えないとほんとうは私は思う。
 ひとはそれを仕事の道具としても使う。しかしそれ以上に、こころの道具とし
 て使う。間違いない。私ももちろん含めて人間とはそういうものだと思う。
 IT時代のことばのゆくえとは、こころのゆくえといってもいいだろう。私た
 ちはことしの成人の日、式典の最中でも「沈黙のおしゃべり」に没頭するその
 姿に、やってきた「新しいおとなたち」のこころの風景を見たはずだ。

なんだか「予言」でもしていたみたいです。
ほんとうに、依存症になってしまったし。私自身も。
そしてその反面、コミュニケーションは
ますます<直接><リアル>じゃなくなってきています。
それは、どんなに<頻度>が増しても<希薄>になるはずです。
メールなどの「電子のおしゃべり」は、じつは圧倒的に「情報量が少ない」。
<声>や<表情>などの、アナログ情報を伴わないから。

さあ、これからの「ことば」は、どこにいくのか?
考え、見つめつづけていきましょう。

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