「人類は、まだ、よちよち歩きのベビーなんだよ」
と微笑むダイソン教授の、視線の被方にあるもの。
ひさしぶりに故郷の家に帰り、昔の書棚がそのまま残されているのに気が
ついた。
古い百科辞典が埃をかぶっていた。 1963年の発刊だった。頁を繰ってみれ
ば、こんな文章に出くわす。「月旅行という人類永年の夢が実現するのも、
そう遠い未来ではないだろう」確かに、遠い未来ではなかった。その年入学
した小学生は、卒業する年に夢が現実となるのを目撃している。
「21世紀の暮らし」というタイトルで、衣食住、通信、交通の発達を予測し
た解説書も見つかった。あと10年で実現しそうなものもあり、すでに常用さ
れているものもあった。的はずれも少なからずあるように思えた。たとえば、
体温調節に優れ、機能的で、汚れず、何日でも着ていられる服。実現可能に
しても、人々が好んでそれを着るだろうか。そういえば、SF漫画に出てくる
未来人たちは、決まってみんな、ウェットスーツに似た同じような服を着て
いたものだけれども。
フリーマン・ダイソン教授に会って感じたのは、何と遥かな眼差しをして
いる人なのだろう、ということだった。
「銀河系の島々を生命で満たす」可能性について考えている彼は、SF作家で
も未来学者でもなく、プリンストンの物理学教授である。
ダイソン教授の話は「生命体としての人類にとって最も重要なもの」という
ところから始まった。「それは多様性なのです」と教授はいう。「言葉や文
化、個人の価値観の均一化が進むとすれば、それは人類の危機となるでしょう」
そうなのだ。みんなと同じウェットスーツを着ていないからといって、レス
トランから追い出されるような未来を、私たちは望んでいない。
「しかし、この地球上の限られたスペースで人々が暮らす以上、均一化は避
けられない傾向なのかもしれません」と、ダイソン教授は心配する。
「人類の子供たちは、いつか選択する機会を持つでしょう」 ダイソン教授
の瞳は、遠い彼方を見つめはじめた。ひとつの選択は「いまはまだ死んでい
る宇宙に出て、そこを生命のある世界に変えること」そして、もうひとつの
道は「この惑星に残って、生命を守り続けること」。選ぶ自由は、21世紀の
子供たちに与えられる。いまはまだ、本当の意味では宇宙時代には至ってい
ないのだ。私たちの宇宙船はまだ、よちよち歩きのベビー靴に過ぎない。
新しくできた高速道路のインターを降りた時、かつて窮屈に思えた故郷が、
とても愛らしくチャーミングに見えた。子供たちが家を出て一人前となるよ
うに、いつか、宇宙に出て暮らす日も来るだろう。その時、人類は、大人に
なるのかもしれない。
もうすぐ、未来がやってくる。
*1990年の制作。
筑波大学での公開講演の資料として、ひっぱり出して来ました。
ダイソン博士の「予見」は、やっぱりすごかった。
あれから二十数年で「グローバリゼイション」という名の「画一化」は、
地球を覆いつくしてしまった。「多様性」は、ほんとうに危機にある。
それにしても。
いまの学生たちのほとんどが「生まれる前」か・・・1990年は。