(うろ覚えですが、たしか第1報は・・・)
「通常ありえない様態で外壁が開放された」みたいな発表。
・・・それは、水素爆発のことでした。
「異音がした」。
・・・それは、爆発音でした。
絶対に絶句してはいけない話者が絶句したときの、絶対的恐怖。
(けれど、その立場に自分がいたら、どうしたか?)
感情論が何の役にも立たない場面での、記者クラブの糾弾口調。
その後に現れた官房長官のことばは論理的で、冷静さが取り戻せたこと。
不安を増幅するようについ演出してしまう、民放ナレーターの癖。
むしろ冷静でよいと思えた、NHKアナウンサーのトーン。
「乳幼児に飲ませない」「水で洗い流せ」という警告が生む、怖れの増殖。
数値と専門用語を投げ出す、リテラシーを考えない、情報開示。
その不安と自己愛のために、首都圏では被災地への思いが分断される。
それから(出演者にも制作者にも咎はないけれど)
「通常の100倍以上」流されることで生じる「AC」作品の不快。
ネットを駆けめぐる出どころ不明の情報、匿名性の問題。
繰り返された「緊急地震速報」の「オオカミ少年」化の課題。
文法上、結論が最後にくる日本語を、緊急時にどう使うか。
複雑な敬語、丁寧語、曖昧語が、難解にし、誤解も生む問題。
私たちは「ことば」のもどかしさをあらためて痛感し
けれど、情報の交換も理解も「ことば」に頼るしかない。
たとえば、汚染の実害より、きっとパニックの方が危険です。
「ことば」は、危機を増幅もし、そして鎮静もさせます。
社会は「ことば」で動いています。