震災からひと月ほどたったあとに
ある女性が こう言ったのを聞いた
わたし はじめて見た
おとなの男のひとたちが 声をあげて泣くのを
ひとたち と複数で
だからそれは 自分の夫と おそらくは お父さんだろうか
ぼくはそのとき 不意をつかれて 親指の爪を見た
ぼくは 泣かなかった そのときも それからも
泣くよりも すべきことがあると 昂揚していたぼくは
大泣きをしたという記憶は いままでの人生で 3回だけある
父が亡くなったときではない
母が亡くなったときではない
祖母が亡くなったときでもない
ひとつの記憶は ごく幼い頃
そんなに泣き虫ではなかったはずだけど あるとき泣き出したら
とまらなくなり そうしたら 母がなぐさめてくれたので
うれしくて泣きつづけていたら いいかげんににしなさい と
しかられて かなしくて いつまでもとまらなかった とき
もうひとつは ずっとずっとおとなになってから
故郷に帰って飲んで 酔い覚ましに深夜 町をひとまわり
歩いているうちに 忘れていた恥辱 罪悪 自己嫌悪が
亡霊のように 総出で押し寄せてきた あの月夜
それから さらにおとなになって
自分の どうしようもない矛盾の 葛藤のために
その 情けなさのために 口惜しさのために
ただ 自分自身のために
「月がきれいね」
そうだ かなしみのように きれいだ
(その月は ぼくだけのものではないのに)
自分のために泣くな
世界のために泣け
そんな かっこつけたことを言いながら
ぼくは 泣かなかった あのとき
たとえば みずから重機の免許を取って
行方不明の我が子を探した若い母親の話 など聞いたら
それは 涙がにじむ (にじみはするけど)
泣かないのか? 泣けないのか?
自分のためでなく 他者のために
そうやって 唇をかみしめる その痛みも
自分のためだった あなたのためではなく