赤城山も榛名山も
雪化粧していなかった。
コートもいらないような
穏やかな今日、
墓参して思い出したこと。
マーシャルの悲報を知りし 今朝なれば
皆黙々と麦を踏みにき
太平洋戦争中、マーシャル群島で日本軍が玉砕したのは
1944年ですから、母は 16才で女学校2年生、
ということになります。
この短歌は当時の雑誌『少女の友』に入選したのだそうですが・・・
見方によれば厭戦(突き詰めれば反戦)的とも読めるこの作が
よくぞ掲載されたものだと、漠然と思ってきました。
母の言っていたことには、これは入選作で何番めかの掲載。
「特選」になるはいつも、もっと戦意を昂揚するものだった・・・
ふと思い返し、きょう気づいたのです。
そのこと自体、選者、編集者の「精一杯」だったのではないか、と。
そうして、いろいろ考え、命日とは別の涙がこぼれそうでした。
思い出多きテニスコートを耕して
芋うえるため我も鍬もつ
佐々木那や夏目漱石読みくれし
若き師の君召され征きたり
この教師は生還したでしょうか。
ほのかな思慕のその相手は、まだ20代だったでしょう。
母は、『少女の友』(川端康成などが連載したりしていた伝説的雑誌)
の表紙画を描いていた中原淳一の大ファンでした。
そこには・・・現在のPOPにつながる何かの遺伝子があると思います。
「玉砕」と美化された「悲報」「惨劇」が重なる頃、
中原淳一は(それを導いた)軍部より「退廃」的との指弾にさらされて、
この表紙画を描くことも禁じられたのでした。