いまや人気翻訳家にしてエッセイも書く岸本佐知子は
かつてサントリー宣伝部時代の後輩でPR誌の編集などともにしてました。
エッセイではダメOLぶりをさかんに書いていますが
たしかにOLとしては・・・でも、とても気の合う仕事仲間でした。
2008年版の『コピー年鑑』で特集対談のゲストに招きました。
森本千絵のアートディレクションにより、その場所はなんと・・・
走るBAR(改造バス)のカウンター、バーテンダーは「ラジオ」の尾崎さん。
尾崎さんにも、かつて仕事ではたいへんお世話になりました。
原宿から青山、千駄ヶ谷、そして「80年代」あたりを巡るBUS BARの旅。
なんか、時空が錯綜するような、不思議な体験でした。
当事者とはいえ「禁無断転載」の編集内容ですので。
ごく一部を引用します。詳しくは当年鑑にてお読みください。
岸本 ところで愚問なのですが。翻訳は勉強すれば上手くなるけど、
コピーって訓練して上手くなれるものですか?
一倉 上手くなると思う。
でも、上手くなるから面白くなくなっていくというのもある。
岸本 面白くないというのは誰から見て?
一倉 どうしても、クライアントや広告会社が喜ぶ範囲で仕事を運ぶのが上
手くなっちゃうというか…。でも、やはりそれではダメ。
やっぱり新しいことをやろうとして、はみ出したり、ボツになりなが
ら頑張っていた若い時の方が面白かったし、楽しいと思う。
岸本 やっぱり年齢ってあるよね。
一倉 ひしひしと感じております。
岸本 翻訳でもそれが結構ある。たとえば日本でいえば渋谷のギャルみたい
な語りで書かれた小説を訳しませんかと言われたりすることがたまに
あるんだけど、もう全然ダメで。それは若者言葉を知らないとかそう
いう問題ではなく、肉体年齢が関係している感じ(笑)。
翻訳もコピーも頭でやっているようで、実は身体でやっているのかも
しれない。翻訳をやっている時は、自分がただの空っぽの器であるよ
うな感覚があるです。その空っぽな中に外国の言葉が入ってくるとカ
ランカランと日本語で音が鳴って、それを書き留めているイメージ。
だから器が古びてくると音もちょっと変わってくるし、合わないもの
も出てくる気がして。
一倉 でも、考えてみたらさ。君もかつて開高健さんと直接話したことがあ
るじゃない? あの頃の開高さんっていくつ?
岸本 あ、そうか、すごく大人の感じがしていたけど……。
一倉 今の僕らと変わらないくらいの歳だったよね。
岸本 何度かお会いして、大勢で飲みに連れてっていただいたことがあった。
開高さんって、いつも帽子かぶって上半身がバーンと太くて腰高で、
日本人離れした豪快な感じだったでしょう?
で、話もすごく面白いんだけど、面と向かって喋るときの目はすごく
怖かった。目が合っているはずなのに、開高さんの目は内側を向いて
いる感じがしてね。「私を見ているけど、私を見てない…自分の脳内
を見ている!」って。私は自分がこんな偉い人と口をきいていいのか
と気絶しそうになりながら、それだけは覚えてる。
一倉 すごいところを見ているね(笑)。
でも、若僧を相手にちゃんと真剣に話してくれる人だった。
岸本 そうそう。あと、『バッカス』という雑誌を作った時、スタッフがみ
んな素人ばかりで無い知恵を絞ってたから、開高さんが顧問としてと
きどき会議に来てくださった。そこでいろいろ案を出してくれるんだ
けど、次の会議までにそれが全然できていない。すると開高さんはい
きなりこんな風に話すんです。「わたしの家の近所のレストランはな、
ほうれん草のサラダが美味い。で、わたしが『これにカリカリのベー
コンをかけたらもっと美味くなる』と言うと、そのたびに『かしこま
りました』と言ってかけてくれるんだが、次に行くとまたベーコンな
しで出てくるんや」と。そこまで言って黙るのね。
一倉 それが何かの比喩になっているんだね。
岸本 そう。最初はみんなぽかーんとしてるんだけど、1人が「すいません
でした」と言うのを聞いて、あ〜私たちは気が利かないって言われた
んだってことがわかる。そんな風に全ての話に芸があって、小説家っ
てすごいなって思ったの。
いまはなき六本木交差点の本屋でバイトしていた頃、ゴミ箱の上に座って岸本さんのエッセイ「気になる部分」を読み爆笑してゴミ箱の蓋をおのれの臀部で割りました。
時がたち、コピーライターになってエッセイを読み返し「・・・この人もしやサンアドにいたのでは」と遅くも気づいた矢先、TCC年鑑であの一倉さんと対談しているのを見ました。
「スゴイ人は皆どこかでつながっている」そういうことなのだなあ世の中、と思います。
「いまはなき六本木交差点の」ってことは、誠志堂ですね。
青山ブックセンターのほうじゃなくて。
そういえば青山ブックセンターさんが危いと知れた夜・・・
岸本佐知子からメールがきて「存続嘆願」の署名をしました。
誠志堂さんにもお世話になりました。
きっとsoyaさんがいた頃にも。
「皆どこかでつながって」いますよ。